2020年4月6日月曜日

「世間」とは何か

京都の中塚公子さんが発信している「アイリス通信24号」特集記事を転載させて頂きます。
毎回、素晴らしい記事が届きます。

今回は、『「空気」と「世間」』(鴻上尚史著、講談社現代新書)からです。今まで判ったようで解らなかった「世間」のことがよく判りました。(page43~51)

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「それは理屈だ」と「しようがない」の意味するところpage43~51

確かに、たまに耳にする「それは理屈だ」という言葉は、このことを象徴しているでしょう。
この言い方は、例えば英語には翻訳不可能です。理屈にあっているのなら、なんの問題もないのですから、「それは理屈だ」というのは、ほめ言葉になっても、けなし言葉や拒否の理由にはならないのです。
ですが、あなたと僕が日本社会に生きているのなら、この言葉が含んでいる意味は簡単に分かります。「それは理屈だ」というのは、「人間というものは、そんなに簡単に理屈で割り切れるものではない。論理的には、お前の言っていることは正しい。けれど、それでは、世間は納得しないだろう。もっと人間の事情や感情を考えろ」ということです。
これは、西洋的な「個人」の概念から出てこない言葉でしょう。
阿部さんは、「明治以降日本に入ってきた自由、平等、博愛、ヒューマニズムや愛などという言葉は伝統的な世界では用いることができませんでした」(『近代化と世間』朝日新書)と書きます。
私たち日本人が実際に生きている「世間」では、そういう言葉は、リアリティーを持ってない、ということです。
代わりに、例えば、「そこをなんとか」とか「しようがない」という言葉は、「歴史的・伝統的システム」の中で、よく言われる言葉です。
それは、「世間」の中で、独立していない中途半端な「個人」が、つまりわれわれ日本人がよく使う言葉なのです。
「それはこういうことで無理なんだ」と理屈を言っても、「そこをなんとか」と返されると、日本人としては、なんとかしようと考えてしまいます。そもそも、いくら理屈で圧倒的に正しいことを言われても、「そこをなんとか」と言い返されてしまうところが日本人としての強み(?)でしょうか。
「しようがない」に関しては、ベストセラーになったカレル・ヴァン・ウォルフレンの『人間を幸福にしない日本というシステム』(毎日新聞社)の中の文章が、典型的な欧米人の見方を表していると思います。7 

「シカタガナイ」というのは、ある政治的主張の表明だ。おそらくほとんどの日本の人はこんなふうに考えたことはないだろう。しかし、この言葉の使われ方には、確かに重大な政治的意味がある。シカタガナイと言うたびに、あなたは、あなたが口にしている変革の試みは何であれすべて失敗に終わる、と言っている。つまりあなたは、変革をもたらそうとする試みはいっさい実を結ばないと考えたほうがいいと、他人に勧めている。「この状況は正しくない、しかし受け入れざるをえない」と思うたびに「シカタガナイ」と言う人は、政治的な無力感を社会に広めていることになる。本当は信じていないのに、信じたふりをしてあるルールに従わねばならない、と言う時、人はまさにこういう立場に立たされる。
この文章を読んで、驚いた人は少なくないかもしれません。そこまでのつもりで言っていないと思った日本人は多いでしょう。正しいとか正しくないではなく、これが、欧米人の典型的な受け取り方なんだということです。
そして、西洋的な「社会」を前提にすれば、ウォルフレンの発言は正しいことになります。けれど、「世間」に生きている日本人は、そこまでの明確な敗北の意識で、この言葉を使ってはいないのです。
「シカタガナイ」に相当する英語はあります。例えば、'It cannotbe helped.’なんていう表現ですが、欧米での生活の中で、僕は欧米人がこの表現を使っているのに出会ったことがありません。ぎりぎり、'We have no choice.’(選択の余地がない)という言い方ですが、この言葉の裏には、「考えられる限りのことはやった。でも、これしかない」という能動的なニュアンスがあります。
「しようがない」という受け身の、なにもしないまま、ただ気持ちだけ「あきらめる」というニュアンスの発言はほとんど聞きません。それは、西洋的な「社会」では、ものすごく敗北的なことになるからだと思います。こんな言葉を簡単に言ってしまう「個人」は、西洋的な「社会」では、完璧に負け犬(loser)なのです。
あらためて確認しておきますが、だから、欧米人と日本人のどっちが正しいか、なんてことを僕は言っているのではありません。
私たち日本人は、望むと望まざるとにかかわらず、こういう社会に生きている。だから、まず、この社会の特質を明確にしよう。そうすることで、自分が生きている世界がくっきりと見えてくると思っているのです。
阿部さんはこんなことも言っています。
「世間」と社会の違いは、「世間」が日本人にとって変えられないものとされ、所与とされている点である。社会は改革が可能であり、変革しうるものとされているが、「世間」を変えるという発想はない。近代的システムのもとでは社会改革の思想が語られるが、他方で「なにも変わりはしない」という諦観が人々を支配しているのは、歴史的・伝統的システムのもとで変えられないものとしての「世間」が支配しているためである。
(中略)明治以降わが国に導入された社会という概念においては、西洋ですでに個人との関係が確立されていたから、個人の意志が結集されれば社会を変えることができるという道筋は示されていた。しかし「世間」については、そのような道筋は全く示されたことがなく、「世間」は天から与えられたもののごとく個人の意志ではどうにもならないもと受けとめられていた。(『学問と世間』岩波新書)
「世間」は変えられないものだと思っているから、「しようがない」という言葉がよく出てくるというのです。それを簡単に敗北主義的だと攻撃するのはちょっと酷というものでしょう。
阿部さんは、大学の教授でもあったのですが、最もやっかいな生徒は、両親が教師の生徒だと語ってい8 

ます。
教師は理想を語ります。それは、独立した「個人」が生活する「社会」における生き方です。教師は、決して「長いものに巻かれろ」というような「世間」の智恵は語りません。
学級会のまとめで、「一番大切なのは、『長いものに巻かれろ』ということだ。上司とか強い奴のギャグにはとりあえず大声で笑っとけ。今週の標語は、『寄らば大樹の陰』だ」なんていう生きる智恵を語る教師はいないでしょう。いたら、教育委員会やPTAが問題にするかもしれません。結果、子供たちが生きていく世界の真実を伝えようと思う教師は沈黙するしかなくなります。
教師として公式に語ることを求められるのは、強い「個人」となり、長いものに巻かれてしまう「世間」と戦い、「社会」を変革する、ということを理想とするということです。
けれど、残念ながら、日本の現実は、そういう「個人」をなかなか受け入れてはくれません。
教室でだけ、教師の理想を聞いていた生徒は、やがて「世間」との付き合い方を知るようになりますが、教師の子供は、家庭でも教師である親から理想を聞くので、「世間」の存在自体を受け入れ難くなるのだと、阿部さんは言うのです。
じつは、僕は両親が小学校の教師だったのでこの言葉がよく分かります。僕が子供の頃から感じていた「世間」に対する違和感は、これだったのかとこの文章を読んで納得しました。
この本は、僕がそもそも「世間」と「空気」に息が詰まり、それを乗り越えるためにどうしたらいいか考え始めたことから生まれました。
うっとうしい「世間」と「空気」の中で、どう生きたらいいのか。それは、この本のメインテーマですから後述します。

インテリが無視する「世間」

さて、阿部さんは「日本人の多くは『世間』の中で暮らしている。しかし日本の学者や知識人は『世間』という言葉から市民権を奪い、『世間』という言葉は公的な論文や書物には文章語としてほとんど登場することがない」と、憤慨しています。そして繰り返し、「『世間』を研究することはとても大切なのに、学者やマスコミの人間たちは、『世間』の存在を無視して、まるで、『社会』にいきているのかのように振る舞う」と抗議「の声をあげ続けました。
海外で長く暮らした人は、たいてい二つのタイプに分かれます。
「日本を大嫌いになる」か「外国を大嫌いになる」かです。
日本のいいところと、自分が住んだ外国のいいところを、冷静に分析して取捨選択しようとする人は、本当に少数派です。
例えば、若い頃、フランスに何年か住んだ人は、何かあるとフランスを持ち出し、日本のベタベタとした人情だけの、理屈が通らない現状を攻撃します。意識としては、完全にフランス人です。
逆に、海外でこっぴどくうちのめされた人は、例えばアメリカの、なんでも契約で、ずけずけとものを言い、ものごとをはっきりさせる、情緒のなさを激しく攻撃します。熱烈な愛国主義者になるのです。
それはつまり、西洋的な「社会」に憧れるか、日本の「世間」を熱烈に受け入れるか、の極端な結果だと思えるのです9 

若者が感じるのは「世間」ではなく「空気」

「社会」と「世間」の違いを、概括的に書いてきましたが、阿部さんは、「世間」の原理、ルールをいくつかあげています。
それを今から整理します。
ただし、その前に、大切なこと――。
ここまで読んで、「私は『世間体が悪く』なんて言い方しないのになあ」と思っている若い読者がいると思います。「両親や祖母は言うけど、今どき、『世間様に申し訳ない』とか『世間体が悪い』なんて言わないし、思ってないんだけどなあ」という人です。その気持ちもようく分かります。
ある大学の講演会で、これから書く「世間」の特徴をいろいろとあげました。大学生たちは、興味を示しても、どこか他人事のように聞いていました。
ところが、「この『世間』が流動化して、どこにでも現れるようになったのが、『空気』なんだよ」と言った途端、教室の空気が一変しました。それは、劇的と言っていい変わり方でした。
「ああ、分かる」と思わず声を出した女性もいました。自分がいつも苦しめられている「」とはなにか、それがリアルに分かった瞬間なのでしょう。
なので、今から書く「世間」の特徴は、さまざまなレベルで「空気」に当てはまるものなのです。…

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鴻上尚史氏(こうかみしょうじ)作家・演出家。1958年、愛媛県生まれ。早稲田大学卒。在学中に劇団「第三舞台」を旗揚げ。94年「スナフキンの手紙」で岸田國士戯曲賞受賞、2010年「グローブ・ジャングル」で読売文学賞戯曲賞。現在は、「KOKAMI@network」と「虚構の劇団」を中心に脚本、演出を手掛ける。近著に『「空気」を読んでも従わない~生き苦しさからラクになる』(岩波ジュニア新書)、『ドン・キホーテ走る』(論創社)、また本連載を書籍にした『鴻上尚史のほがらか人生相談~息苦しい「世間」を楽に生きる処方箋』がある。

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