2020年9月13日日曜日

米国は本当に原子爆弾を落とす必要があったのか?

これは、日本人が目を背けてきた問題ですよね。
いつまでも逃げていてはいけない気がします。

冷泉彰彦のプリンストン通信  週刊 Life is Beautiful 2020年9月1日号より

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このテーマは、普段のメルマガに各テーマとは大きく違いますが、米国に暮らす日本人としてたまたま目にした英語の記事に色々と考えさせられることがあったので紹介します。

それは、「Did the Atomic Bomb End the Pacific War?」というタイトルの記事(2部構成の長文の記事)で、人類史上最初の(そして現時点では最後の)人類に対する核攻撃である広島・長崎への原子爆弾の投下が、戦争を終わらせる上で本当に必要だったのかを考察した記事です。

日米ともに一枚岩ではなく(=内部でも意見が分かれており)、その観点から、それぞれの国でどんなプロセスで物事が進んで行ったのかをとても丁寧に説明している貴重な資料です。

私なりに要点をまとめると、以下のようになります。

  • 1945年の時点では、日本には食料・武器・燃料が不足しており、勝負は既に付いている、と米国は見ていた。
  • なので、米国にとっては勝つか負けるかではなく、どんな形で終結させるか、でしかなかった。
  • 米国が最初の原子爆弾の実験に成功したのは、7月16日。
  • 日本の無条件降伏を要求するポツダム宣言は、米国・英国・中国によって行われた、米国はソ連を意図的に排除した。
  • ロシアをポツダム宣言から排除するようにTruman大統領を説得したのは、米国国務長官のJames Byrnes。
  • ポツダム宣言にロシアが加わっていれば、日本が(原爆投下の前に)降参した可能性が高い。
  • James Byrnesは、それを知っていてあえてロシアをポツダム宣言から外した(日本にはすぐに降参して欲しくなかった)。
  • 日本側は、六人の指導者がいたが、ポツダム宣言(7月26日)を受けて降参するかどうかでは3対3に意見が別れていた。
  • この時点で、天皇は意見を言わず(言わないしきたりだった)、条件付きの終戦を主張し続けた。
  • 米国側では、日本本土への上陸作戦が計画されていたが、死傷者の数は30万人近いと見積もられていた。
  • 戦後、原爆により救われた米国の死傷者の数は100万人超と宣伝されたが、それは誇張された数字。
  • 東京は既に焼け野原で、京都は美しすぎる、という理由で、原爆を落とす対象から外された。
  • 広島と長崎が選ばれたのは、軍事施設への攻撃と戦後説明しているが、これは方便。
  • 日本に原爆を落とした理由は、日本を降伏させるためでもあったが、ライバルのソ連に米国の力を見せるためでもあった。
  • 広島に原爆を落とされても(8月6日)、日本政府は降参するつもりはなかった。
  • 広島に原爆が落とされた後にソ連は日本に宣戦布告をしたが(8月8日)、これは「戦勝国」としての分け前をもらうため。
  • さらに長崎への原爆が落とされたが(8月9日)、日本政府内部での一番のトピックはソ連の参戦。
  • 意見が一致しない六人に代わって、天皇が無条件降伏することを提言。
  • 8月14日に日本政府は降伏を決め、15日に玉音放送で正式発表。

つまり、広島・長崎への原爆の投下そのものは、日本政府を直接は降伏には追い込まなかったものの、広島への原爆の投下を見たソ連が、「このままでは自分たち抜きで戦争が終わってしまう」と考えた上で、日本への宣戦布告をした、その結果として日本が降伏を決めた、と言う意味で、間接的に戦争を終わらせることに役立ったことは確かです。

しかし、この文章を読んでいると、日本の軍部のトップが、日本国民の命を尊いものとは考えておらず、降伏によって自分たちが死刑になるぐらいならば、国民全員を道連れにしてでも最後まで戦った方が良いと考えていたことが明確です。ミッドウェイ海戦(1042年)での大敗以降、敗戦が濃厚になったにも関わらず、なかなか降伏できなかった理由が、これで説明できます。

結局のところ、戦争をすれば苦労するのは国民であり、政治家の「平和のための戦争」などと言う言葉を決して信じてはいけないと言うことが良く分かります。

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2020年9月6日日曜日

コンピューター;便利さと人の幸せ

 8月22日に『「夏の木陰」:バンクーバーにて』をご紹介させて頂いた
バンクーバー在住の小林徹さんから、
私のコンピュータートラブルに因んで、納得のエッセイを頂戴しました。
独り占めするのはもったいないので披露させて頂きます。

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私は、ただ、組織の縦関係を嫌い、自由な生き方を求めて彷徨っていただけの人間です。

個人で設計事務所をやっていた時には、仕事が忙しくなって、一時、ドラフトマンを雇ったこともあリましたが、

結構早い時期からコンピューターを導入したのも、ドラフトマンを雇わなくても、コンピューターなら、他人の力に頼らず1人で、納得のいく仕事ができるのではないかと考えたからでした。


こちらに、within my arm’s length という言葉があります。自分の腕の長さの範囲で、という意味で、たとえ狭くても、自分の手の届く範囲、自分一人でコントロールできる範囲での仕事をし、あるいは、生きていくことを示唆した言葉です。


私は、かって、子供の時に、西宮港に浮かぶヨットの白い帆が、陽の光にきらめくのを眺めながら、ぼんやりと考えたことがありました。

世の中には、大きな造船の仕事に携わり、その部品の設計や製作だけで一生を終わる人もいれば、ちっぽけなヨットを設計し、全て自分一人でコツコツ完成させる船大工のような人もいる。果たして、どちらが真に船の設計者と言えるのか、いや、一体、どちらが人生の充実感が得られるのかなと。


つまり、自由に生きていくためには、組織に属し、組織の中で生きていくことを考えず、何かのプロとして、自分の世界を持ち、自分の時間は、自分でコントロールして生きていけるような方向を考えた方が良いのではと思った次第です。その方が、自分らしく生きられるのではと。

その時、近くにあった菜の花の上を、ヒラヒラと飛んでは花に止まる白い蝶の羽が、ヨットの帆に見えて、この生き方を肯定されたような気がしました。

思へば、私のライフスタイルの決定は、あの白い蝶だったとも言えますね。


昔から、同様の考えや教えが様々な国であるのを知ったのは、ずっと、あとになってからのことでした。

こちらのネイティブインディアンの教えに  「自分で船を作り、自分の船の船長になりきること」 というのがあります。

一人で作れる船は、カヌーか、丸木舟でしょうね。

中国では、史記の中、蘇秦の言葉 「鶏口となるも牛後となるなかれ」 は、あまりにも有名です。

英国では Better be the head of a dog than the tail of a lion. つまり、「ライオンの尻尾より犬の頭」 。


外国に目をやるまでもなく、日本本来のものとしては 「鯛の尾より鰯の頭」 がありました。さすが海産国。

「寄らば大樹の陰」を好み、大きなものに属して生きることが好きな日本人でも、昔は、気概のある人はいたのですね。


ところで、コンピューターが発達して一般のグラフィックの分野に入り込んでくる前には、建築の完成予想図は、すべて手書きで作画し、水彩絵具と絵筆を使って描いていかねばなりませんでした。このような完成予想図は、クライアントとのコミュニケーションにおいて、仕事の決定に関わるとても大切なものだったので、そんな絵だけを専門に請け負う商業画家に依頼する建築家も多かったのですが、私は、子供の頃から絵が得意だったので、コンピューターを導入する以前は、全て自分で描いておりました。この添付した絵は、その一例で、モーテルの増築工事の時のものです。


コンピューターを導入してからは、絵ではなく、もっぱら3Dモデルを作成してクライアントとのコミュニケーションに使っておりました。その方が画像モデルの建物内部に入り込んで、現実の目の高さで、あたかも歩いている様に動かしていくことも可能となり、クライアントの求めに応じて各部屋を見て廻れるので、はるかに説明し易い訳です。

その上、コンピューターでの設計は、手作業による設計に比べ、はるかに効率良く仕事がこなせるので、一旦その道に嵌り込んでいくと、もう、それ以外出来なくなってしまいます。

そして、時間をかけて習得した手仕事の技巧は退化していくわけですね。

しかし、コンピューターの3Dモデルの作成作業は、アプリの操作さえ覚えれば、誰でも出来ることなので、それは、もはや建築の設計に絵心は必要ない時代になってきたということでもありました。

かって、絵筆だけ持って日本を飛び出した私でしたが、そんな時代の流れで、自ら絵筆を手放してから、随分、久しくなってしまいました。


道具を発明して使うことで進歩してきた人間の脳は、また、その道具を使い易いような脳に変化していくようで、いわば、道具が脳に影響を与えていく逆作用現象とも言えるのでしょうね。脳だけでなく、感覚や発想までも変化していくのかも知れませんね。

そんな現代の道具の最たるものがコンピューターですよね。


私は個人で設計事務所をやっていたので定年は無かったのですが、元々、ビジネスというものが性に合わないこともあり、65歳をケリにサッサとリタイアして、それからは、気が向けば水彩絵筆の代わりに毛筆で文字をのたくるようになってきたのですが、これは思えば、コンピューター時代への反動なのかも知れませんね。しかも、多彩な水彩ではなく、墨の濃淡と余白だけの単純素朴な世界。

「Simple is the best.  Less is more. 」の世界ですね。

あとは、自分なりの詩と文の世界に遊べればと思っております。


いったい、誰の詩だったのか思い出せませんが、「便利な世界」という詩があります。


便利な世界は複雑だ。

便利な世界は忙しい。

便利な世界は不安にさせて、

便利な世界は落ち着かない。


人は、やみくもに便利さを追求する生き物ですね。

人の歴史は、便利さの追求の歴史でもあったと云えます。

便利さとは、つまるところ、効率。

その売りが、ビジネスの根幹に行き着くわけです。

お金の発明、効率を上げる道具の製造、効率よく人を働かせるシステムと施設、

大量生産、オートメーション、果ては、効率よく人を殺す兵器、等々。

だから、ビジネスそのものからは、人は幸せを得られることはないのではないでしょうか。

ひょっとして、あるのは幸せの幻想のみかも知れませんね。


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