これは、日本人が目を背けてきた問題ですよね。
いつまでも逃げていてはいけない気がします。
冷泉彰彦のプリンストン通信 週刊 Life is Beautiful 2020年9月1日号より
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このテーマは、普段のメルマガに各テーマとは大きく違いますが、米国に暮らす日本人としてたまたま目にした英語の記事に色々と考えさせられることがあったので紹介します。
それは、「Did the Atomic Bomb End the Pacific War?」というタイトルの記事(2部構成の長文の記事)で、人類史上最初の(そして現時点では最後の)人類に対する核攻撃である広島・長崎への原子爆弾の投下が、戦争を終わらせる上で本当に必要だったのかを考察した記事です。
日米ともに一枚岩ではなく(=内部でも意見が分かれており)、その観点から、それぞれの国でどんなプロセスで物事が進んで行ったのかをとても丁寧に説明している貴重な資料です。
私なりに要点をまとめると、以下のようになります。
- 1945年の時点では、日本には食料・武器・燃料が不足しており、勝負は既に付いている、と米国は見ていた。
- なので、米国にとっては勝つか負けるかではなく、どんな形で終結させるか、でしかなかった。
- 米国が最初の原子爆弾の実験に成功したのは、7月16日。
- 日本の無条件降伏を要求するポツダム宣言は、米国・英国・中国によって行われた、米国はソ連を意図的に排除した。
- ロシアをポツダム宣言から排除するようにTruman大統領を説得したのは、米国国務長官のJames Byrnes。
- ポツダム宣言にロシアが加わっていれば、日本が(原爆投下の前に)降参した可能性が高い。
- James Byrnesは、それを知っていてあえてロシアをポツダム宣言から外した(日本にはすぐに降参して欲しくなかった)。
- 日本側は、六人の指導者がいたが、ポツダム宣言(7月26日)を受けて降参するかどうかでは3対3に意見が別れていた。
- この時点で、天皇は意見を言わず(言わないしきたりだった)、条件付きの終戦を主張し続けた。
- 米国側では、日本本土への上陸作戦が計画されていたが、死傷者の数は30万人近いと見積もられていた。
- 戦後、原爆により救われた米国の死傷者の数は100万人超と宣伝されたが、それは誇張された数字。
- 東京は既に焼け野原で、京都は美しすぎる、という理由で、原爆を落とす対象から外された。
- 広島と長崎が選ばれたのは、軍事施設への攻撃と戦後説明しているが、これは方便。
- 日本に原爆を落とした理由は、日本を降伏させるためでもあったが、ライバルのソ連に米国の力を見せるためでもあった。
- 広島に原爆を落とされても(8月6日)、日本政府は降参するつもりはなかった。
- 広島に原爆が落とされた後にソ連は日本に宣戦布告をしたが(8月8日)、これは「戦勝国」としての分け前をもらうため。
- さらに長崎への原爆が落とされたが(8月9日)、日本政府内部での一番のトピックはソ連の参戦。
- 意見が一致しない六人に代わって、天皇が無条件降伏することを提言。
- 8月14日に日本政府は降伏を決め、15日に玉音放送で正式発表。
つまり、広島・長崎への原爆の投下そのものは、日本政府を直接は降伏には追い込まなかったものの、広島への原爆の投下を見たソ連が、「このままでは自分たち抜きで戦争が終わってしまう」と考えた上で、日本への宣戦布告をした、その結果として日本が降伏を決めた、と言う意味で、間接的に戦争を終わらせることに役立ったことは確かです。
しかし、この文章を読んでいると、日本の軍部のトップが、日本国民の命を尊いものとは考えておらず、降伏によって自分たちが死刑になるぐらいならば、国民全員を道連れにしてでも最後まで戦った方が良いと考えていたことが明確です。ミッドウェイ海戦(1042年)での大敗以降、敗戦が濃厚になったにも関わらず、なかなか降伏できなかった理由が、これで説明できます。
結局のところ、戦争をすれば苦労するのは国民であり、政治家の「平和のための戦争」などと言う言葉を決して信じてはいけないと言うことが良く分かります。
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