2011年8月26日金曜日

蓼科だより・201号〜田舎暮らし情報

★ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー2011年8月20日(土)★
★今回のテーマ: 立科の盆 & ヒロシマ3万5千発分の核実験
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 今年の盆は,フルコースっていう感じになりました。その様子を書いてみましょう。


13日夕方は,墓(近くにある)までご先祖のお迎えに行き,帰って全員で夕食です。春の連休以来の歓談です。この辺りではご先祖様のお迎えは,藁を墓で炊き,家に帰ってまた炊きます。その煙りに乗って帰って来るのです。送るのはこの逆をやります。皆さんの地域では如何でしょう?
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 14日は,次男とその長男(小学3)と私で蓼科山(2530m)に登りました。わたしは20回以上登っていますが,十数年ぶりの登山。孫はもちろん初めてです。
自分自身も孫も両方が「大丈夫かな」と心配しましたが,休みやすみ約2時間で登頂し,山頂で1時間景色とおむすび,帰路も約2時間で無事下山しました。
久しぶりの山は美しく生気いっぱいでした。深山ウグイスの鳴声のすばらしさは形容のしようがありません。しかし,登っている間はかなりシンドカッタです。
山頂で80才だという老夫婦と5才の女の子にも会い,スゴイ!と感激。
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 14日午後,3年生になる孫がトノサマガエルを捕まえたいと言い出し,わたしと軽トラ(子どもはこれに乗りたい)で田んぼに行って,虫取り網でミゴト捕まえたのです。
トノサマは大きいので,最初手で掴むのを怖がっていましたが,「大丈夫だよ,咬みはしないよ」と言ったら,掴んで虫かごに入れたのです。水草と水を入れ,意気揚々として家に帰り全員にご披露!
体長8センチ程,緑の模様はサイケデリックで目には金の縁取りがあり,貫禄十分です。餌はアマガエルを捕まえていれました。この子はヒマさえあれば虫を追いかけています。
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 15日昼は全員でバーベキューして,夕方は諏訪湖の花火に行きました。次男の嫁が名古屋育ちなので見たことがないというので,急遽決まったのです。私も20年ぶりでした。諏訪の友人に電話して見る場所を案内してもらい,問題である帰りの脱出方法も教わりました。
有名なだけあって,観客数は50万人とアナウンス,見る場所は片倉館の庭にやっと確保,湖畔通りはすごい人波でした。
諏訪盆地にこだまするので,10号が炸裂する音は地響きして体に伝わってきます。幸い雨も降らず,スケールの大きい花火を満喫しました。
脱出のポイントは,最終プログラムの3つ前に席を立ち車に向かうこと,でした。うまく行きました。これを逃すと帰りは丑三つ時になってしまうのです。持つべきは良き友です。

昭和24年からだというこの花火祭と,平安時代からといわれる7年に一度の命がけの御柱祭といい,本当にスゴイ!諏訪人の猛烈な生命力を感じます。祭は地域の文化の結晶,遺産,誇りですよね。 「流れる星は生きている」の藤原ていさん(正彦氏の母)が諏訪人なのも頷けます。
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 16日は次男一家が帰る日。夕方再び全員が集まって送り盆と言ってご先祖を墓に送りに行きます。余談ですが,仏壇にはナスで牛を形づくり,キュウリで馬を形づくり供えます。
ご先祖様は,墓から家に来る時は馬で急ぎ,帰る時は牛でゆっくり行くと教わりました。
次男一家は夕食がすむと,米,タマネギ,ジャガイモを初めとして野菜類を乗用車に積めるだけつめこんで名古屋に向かいました。3時間後着いたの知らせ。長男一家は地元佐久市です。
最期に,名古屋の孫はトノサマガエルを田んぼに戻していきました。
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 祭が終わったようです。ホッとすると同時に,寂しくもある暫しのお別れです。しかし,子供たちがいろんな問題を抱えながらも,孫たちをすくすくと育てているのを見ること程幸せなことはありません。
 私は,財産は全て無くしましたが,もっと大きなものをご先祖から頂いていると感じています。
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蓼科山登山と諏訪湖の花火は,数日内にYoutubeにアップします。
前回の200号に対してたくさん祝辞とエールを頂きました。ロスアンゼルスからも。単純ですから嬉しくてはりきっています!本当にありがとうございます。

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原発問題ではたくさん貴重な情報を頂いており,載せきれませんが三つだけ引用致します。
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下記<>内は,前回の過去の核爆発実験の汚染について,国連科学委員会のデータを使った解説です。このような事実を公表して行けば事態は変わる筈のに,と慨嘆いたします。
<「大気圏内核実験による放射性物質の降下量」
米・ソ・英・仏・中国は、1950年代から60年代にかけて、大気圏内(主として北半球の成層圏)での核爆発実験を繰り返してきました。
これらの核実験で生成した放射性物質は、北半球全体に拡散し、雨水ととも地表に降り続けました。つまり放射性降下物(フォールアウト)です。
・・中略・・
このグラフを見ると、1960年当時は、今の1000~4000倍くらいの放射性物質の降下が続いていたことが分かります。
また、この時代に放射線障害の症例が急増したとか、奇形児の発生が増加したとかの報告があるのかどうかですが、今のところ発見出来ていません。
1963年:400Mベクレル/km2・月。 1995年~:0.2Mベクレル/km2・月>

(Wikipediaより)核実験(かくじっけん)とは、核爆弾の新たな開発や性能維持を確認したり維持技術を確立するために実験的に核爆弾を爆発させることを指す。
 1945年から約半世紀の間に2379回(その内大気圏内は502回)の核実験が各国で行われた。そのエネルギーはTNT換算で530メガトン(大気圏内は440メガトン)でこれは広島へ投下されたリトルボーイの3万5千発以上に相当する[1]。

(私)膨大な核爆発実験が行われ,大量の放射性物質が地球上にバラまかれたんですね。ここまでとは知りませんでした。しかし,結果として何が起こったのでしょうか。いろんな要素があることは理解していますが,人類の寿命が伸び続けたのです。
何故,この過去の事実と中国の核事故が検証されないのでしょうか?
根本的に何かおかしいと思えてなりません。
専門家の皆さんは,素人でも判るように,上記のデータとフクシマのデータを比較明示するべきです。
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 前回のメルマガで政府の公式機関である日本学術会議の副会長が証言している「規制値は安全と危険の境目ではなく,行政が対策を始める目安であり,超えたら危険だと言うのは誤解である。」を引用しました。
しかし,報道を見聞きしていると全ての規制が「暫定基準値を超えたら・・・」となっており,誤解が解けていないと思うのですが,私の勘違いでしょうか?どなたかご教授頂ければ幸いです。
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 原発反対を唱える芸能人が、福島の子供を連れて、文科省に抗議に行ったという報道がありましたが,「なんて,卑怯な!」と思いました。本当に腹が立ちます。
自分の思いを遂げるために,判断力のない子どもを利用するとは最低です。
安中氏の福島の知人が、「福島を放射能汚染地域とする報道は止めて欲しい。福島を食い物にする芸能人は来てくれるな」と怒っていたそうです。

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猪瀬直樹さんのメルマガ「日本国の研究660」に下記の記述がありました。私はなるほどその通りだと納得しました。一部ですが<>内に抜粋します。

<僕はいま歴史区分を明確にしたほうがよいと思っている。「戦後」が終わり、「災後」へ移ったのだ。戦後日本とは不思議な社会だった。戦争を想定外としたのである。
 人類の誕生以来、戦争を想定外とした国家は存在しない。国家を近代的観念とするのであれば部族でもよいしコミュニティでもよいのだが、つねに敵から暴力的に収奪されることを「想定」し、都市のつくり方から建物の配置まで考えた。
水や食糧も備蓄した。武器も用意した。リスク管理に必要なコストを支払った。精神的にも支払ったということである。
その一切合切を考えなくてもよい、とした社会が「戦後日本」であった。ディズニーランドのようであった。>
(私)やはりhttp://www.inose.gr.jp/ から読むことができます。
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長くなってしまいました。調子づくなと叱られそうですが,3世紀のスタート201号に免じてお許し下さい。昨日から雨だったので,土曜の昼間発信するのは初めてです。
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<わたしのサイト>・リンクを貼って頂けませんか?
田舎暮らし情報館(蓼科より): 
http://tateshinadayori.blogspot.com/
田舎暮らし動画: 
http://jp.youtube.com/user/takasukey
このメルマガのアーカイブス: 
http://archive.mag2.com/0000200505/index.html

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